このページの本文へ移動

まちの概要

土地の特徴

 熊野町(くまのちょう)は広島県西部に位置し、広島市から東南へ約12kmの地点にあり、安芸郡に属しています。町の南部は呉市に接し、東部は東広島市黒瀬町、北西部は広島市安芸区、北部の一部が海田町に接しています。町域面積は33.76平方km、東西7.4km、南北8.4kmです。
 地形は周囲を山に囲まれた標高約220mの高原状の盆地であり、町の北東から南西にかけては原山、洞所山、嵩山(城山)、金ヶ燈篭山など500~700mの山々が連なり、南部は石岳山など400~500mの山地となっています。河川は盆地の中央部を流れる熊野川、二河川と平谷川の3本の二級河川が流れています。熊野川は分水嶺より北流、二河川は南流しています。また、本町には222ヵ所のため池があります。

 本町では、東深原遺跡から局部磨製石斧が出土しており、今から約2万年~2万5,000年前の旧石器時代には人々が生活しはじめていたと考えられます。また、町内には縄文時代、弥生時代についても数多くの遺跡があります。

歴史

 7世紀の律令体制下においては、熊野盆地は安芸国安芸郡に含まれており、「養隈郷」と称されていたと考えられます。中世には大内氏の支配下となり、熊野要害など熊野盆地においても毛利氏と尼子氏の争いが繰り広げられました。江戸時代には福島正則、次いで浅野長晟の支配下となり、以後浅野氏による支配が明治維新まで続きました。

 明治22年の市制、町村制の施行当時、現在の熊野町は熊野村と本庄村に合併された川角・平谷に分かれていました。その後、大正7年の町制施行により熊野村は「熊野町」となり、昭和6年には川角・平谷を編入し、現在の熊野町が誕生しました。

 平成20年に町制施行90周年を迎え、平成30年には町制施行100周年を迎えました。 

筆産業

 本町は、江戸時代から伝わる筆の製造を産業の中心として「筆の都」として栄えてきた町です。

 天保9年(1838)に毛筆製造技術がもたらされると、上方の職人の指導により技術普及が図られ、筆の生産が盛んに行われるようになり、熊野で製造された筆は芸州筆として、全国に販売されていました。「熊野筆」という名に変わった今でも、熊野の筆作りは町の大きな産業の一つで、その生産量は全国一を誇ります。
 また近年では化粧筆も注目を集めています。高品質な熊野の化粧筆は愛用者が多く、日本のみならず世界の舞台や映画などのメイクアップにも使用されています。

 毎年秋分の日には「筆まつり」を行っており、平成20年には筆の魅力を全国に発信し、筆文化の振興と筆産業の発展を図るため、春分の日を「筆の日」と定めました。 

発展                 

 昭和40年代には、昭和42年の県営団地の造成を契機に広島市のベッドタウンとして急激な宅地化が進み、転入者が急増しました。このため、昭和40~50年の10年間に人口は2倍以上に増加し、都市化が急速に進展してきました。こうした中、平成2年に広島熊野道路の開通、平成6年に筆の里工房オープン、平成13年に熊野町中央地域健康センター、熊野町西部地域健康センター、平成17年に熊野町立図書館、平成20年に熊野町東部地域健康センターの開設など町民および関係機関の深い理解と積極的な協力により、住民福祉をはじめ生活環境・交通基盤の整備や産業の振興等において一定の向上を図ることができました。令和2年には、広島熊野道路が無料となり、ますます町の発展が期待されます。

 平成30年7月豪雨災害を受けて本町は、町内を3エリア(東部、西部、中央部)に分け、それぞれに防災拠点施設を整備して町内の防災機能を強化する「地域防災拠点施設整備構想」を策定しました。この構想に基づき、令和3年に熊野東防災交流センター、令和4年に熊野西防災交流センター新館を開設しました。

 

<町内施設の開設状況>

平成2年 広島熊野道路の開通
平成6年 筆の里工房がオープン
平成13年

熊野町中央地域健康センターの開設

熊野町西部地域健康センターの開設

平成17年 熊野町立図書館の開設
平成20年 熊野町東部地域健康センターの開設
平成30年

くまの・こども夢プラザの開設

熊野団地防災センターの開設

令和3年 熊野東防災交流センターの開設
令和4年 熊野西防災交流センター新館の開設

 

 

このページに関するお問い合わせ

熊野町総務部 政策企画課

TEL/082-820-5634   FAX/082-854-8009

お問い合わせフォーム