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熊野町を歩いてみよう!~街並散策コース~


熊野町を歩いてみよう!
  街並散策コース  
(所要時間約120分)

まちなみさんさくこーす
郷土館を出発し、田畑の残る農村風景を背景に茅葺民家や神社などをめぐる総行程約3.5キロメートルの長距離コースです。
途中に休憩所としてお茶所(喫茶店)が何件かありますので、ゆっくり休憩しながらめぐってみてはいかがでしょうか。


ルート

1.鬼瓦モニュメント→2.郷土館→3.熊野筆会館→4.諏訪本家→5.木屋祖七旧家→6.世良長兵衛屋敷跡→7.大歳神社/佐太夫神社→8.熊野筆毛筆元祖頌徳之碑→9.筆塚→10.熊野本宮社→11.諏訪神社→12.榊山神社→13.榊山神社玉垣→14.光教坊→1.鬼瓦モニュメント
きやそひちきゅうか
▲緑豊かな熊野町を歩いて実感してください

1.鬼瓦モニュメント

 この鬼瓦は、平成5年に行われた光教坊大修理の際に、本堂の屋根から降ろされたものです。製作は約170年ほど前に作られた「江波瓦」であることがわかりました。
 広島には江戸時代に「舟入の瓦焼」「江波瓦焼」「吉浦瓦焼」の三箇所があったといわれていましたが、「江波瓦」実物は見つかっておらず、この「江波瓦」は幻の瓦と言われていていました。その「江波瓦」の存在を立証したのがこの鬼瓦で、発見当時の新聞には大きく取り上げられました。
 瓦の顔の部分の左側には製造年月日が、右側には製造場所と3人の職人の名前が刻まれています。巨大な鬼瓦の造りには、当時の瓦職人の技術が見てとれ、町の重要文化財にも指定されています。
 この鬼瓦は「対」になっており、もう一つは光教坊の境内に設置されています。
おにがわらもにゅめんと

2.熊野町郷土館(くまのちょうきょうどかん)

 この建物は大正時代初期、町の中心街で栄えた造り酒屋、尺田酒造場を役場が譲り受け、改築整備の後に昭和53年に開館しました。
 建物は宮大工の平木浦次郎氏が建てた重厚で立派な建物で、先祖の生活・歴史・人・産業・文化等を伝える用具や筆の文化に関する用品を保存し、後世に伝えていくものです。
 庭園には鬼瓦モニュメント、1階には明治・大正の農工具、生活用品などが、展示してあり、入口すぐのギャラリーでは、DVDで「筆づくり」や「筆まつり」、「筆踊り」や「彼岸舟」などの映像を見ることができます。中でも、2階にある昭和天皇が広島に来られた時に使用された椅子の展示や、郷土が誇る童謡作曲家の「坊田かずま」の遺品の展示は興味をそそります。また、誰もが出店できるコーナーも設けられています。
開館日/土日祝日、TEL082-855-2559
くまのちょうきょうどかん

3.熊野筆会館(くまのふでかいかん)

 1階部分は「熊野筆事業協同組合」、2階は熊野筆を紹介する展示スペースとなっています。動物園で飼育されているパンダの毛を、丁寧に一本づつ集めて作った珍しい筆もあります。  熊野筆事業協同組合では、各種筆の販売から、赤ちゃんの頭の毛で作る誕生記念の筆「胎毛筆」の受付も行っています。
開館日/平日月~金曜日、TEL082-854-0074(熊野筆事業共同組合)
にかいのてんじのようす

4.諏訪本家(すわもとけ)

 築約350年の県下でも5本の指に入るほど古い民家です。襖の下張りから、元禄時代の広島城の日誌や平谷村享保5年(1720)の古文書などが見つかり、昔は庄屋だったことがわかりました。
 今はトタンで覆われていますが、茅葺屋根の大きさは他を圧倒するものがありますし、玄関の軒下に使われている「梁」は、細い一本杉が使われているなど、昔の建築の様相を残しています。
すわもとけがいかん

5.木屋祖七旧家(きやそひちきゅうか)

 茅葺屋根の見事な築200年の旧家です。現在は町の持ち物となり住む人はいませんが、そのたたずまいは昔ながらの様相で、小さいながらも庭園があり、見ごたえがあります。  この家の持ち主であった木屋氏の詳細は良く分かっていませんが、筆の行商で財を成した人物で、熊野町でも有数のお金持ちだったと推測されています。熊野町に筆の生産技術をもたらした功績者の一人である世良長兵衛(せらちょうべえ)と共に、兵庫で「にしん」を約16両(約100万円)ほど、肥料用に買い付けたという記録が残っています。
 他にも、京都や山陰で行われた俳句の会に出席し、歌を詠んだ記録もあることから、文人でもあったことが伺えます。これは屋敷に残っていた大量の本からも推測されます。
 昭和40年頃には庭で数羽の鶏を放し飼いにし、牛を飼うなどした、古き良き時代の面影を残しています。
きやそひちきゅうかがいかん

6.世良長兵衛屋敷跡(せらちょうべえやしきあと)

 世良長兵衛は住屋長兵衛(すみやちょうべえ)とも呼ばれ、江戸時代後半に熊野筆産業の発展に大きく貢献した熊野の豪商の一人でした。
 彼は14歳の頃から商売を勉強し、17歳で独立。18歳から墨・筆の仕入れを始めるなど、大変商売熱心で才能があり、57歳の時に墨売り捌き取次筆頭、熊野村与頭同格、庄屋に次ぐ地位となります。
 彼は広島藩の「殖産興業政策」にも深く関わっており、芸州筆生産の意向を受け、熊野村庄屋千兵衛と相談して、攝津有馬に「佐々木為次(ささきためじ)」を派遣しました。この佐々木為次が、熊野に筆の生産技術をもたらした者の一人とされています。
 また、世良長兵衛は文人でもあり、京都や兵庫に墨や筆を買い付けに行く途中の日記を「登都道中日記」として残していたり、俳句も嗜んでいます。
 今も残る石垣は、高さが3メートル近くもある立派なもので、当時の財力を物語っています。
せらちょうべえやしきあとのいしがき

7. 大歳神社(おおとしじんじゃ)/左太夫神社(さだゆうじんじゃ) 

「大歳神社」
 この神社は享保6年(1721)に建立され、現在の拝殿は文久3年(1867)に建立されたと伝えられています。
 「とし」とは穀物のことで、大歳神は穀物の神です。「大歳神社」は昔からどのような村にもあり、五穀の神として祭られていて、三次市の無病息災を願う大歳神社の「茅の輪くぐり」に見られるような、面白い行事も残っているもあります。 
 拝殿の屋根は現在ではトタンで覆われていますが、本来は茅葺で、いまでも内側の様子を見ることができ興味深いものがあります。

「左太夫神社」 
 「左太夫(さだゆう)」とは熊野にいた実在の人物です。
 伝説では『榊山神社の神主の家系に生まれた左太夫は、民家の養子になっても母親を大切にしたり、村人のために尽くす心正しき人物でした。しかし、左太夫を妬む人に貶められ、冤罪で牢屋に入れられます。ある寒い冬の日に彼のことを心配した村人から、100枚もの羽織が届けられたのを見た奉行所が、彼の人徳を認め釈放しますが、彼の報復を恐れた人が村に帰る途中で彼を殺してしまいました。すると、その年の夏には見たことも無い、烏帽子をかぶったような虫が湧き、稲を食い荒らし、牛や馬も次々に死んでしまいました。これは左太夫の祟りだと、村人はもちろん、安芸の国の神主全員が集まって7日7晩お祈りしたところ、神殿に飾ってあった藁人形が願いを聞き入れたようにこっくりと頷きました。』と伝えられています。
 史実では、享保3年(1718)広島藩で起きた一揆の首謀者の一人でもあった熊野の左太夫が、打首獄門となったとあります。農民のために命を投げ出した左太夫を忘れてはいけないと、伝説にしたのでしょう。そんな左太夫を祭ってあるのがこの神社です
おおとしじんじゃがいかん
▲大歳神社
さだゆうじんじゃがいかん
▲佐太夫神社

8.熊野筆毛筆元祖頌徳之碑(くまのふでもうひつがんそしょうとくのひ)

 熊野に筆の生産技術をもたらした、「井上治平(いのうえじへい)」と「乙丸常太(おとまるつねた)」を称え、熊野町商工会が昭和22年に建てたものです。
 井上治平は、当時広島市内にいた浅野家の御用筆司、吉田清蔵から製筆の技術を学び、また、同じ頃に乙丸常太も、摂津有馬で製筆技術を修得して帰り、二人とも郷土の村人にこれを教えたといいます。熊野村は山間の地で、自給自足が難しかった寒村でしたが、農耕の傍らに副業として筆づくりをして生計を立てていました。それが次第に生産量が多くなり、熊野筆の名前は多くの人の知るところとなりました。
 筆の生産技術を伝えた功績者としては、他にも「佐々木為次(ささきためじ)」が挙げられますが、彼の名前はなぜか無く、別の場所に碑が建てられています。
くまのふでもうひつがんそしょうとくのひ

9.筆塚(ふでづか)

 昭和40年9月に「筆精」を供養するため建てられました。  この碑の傍らにある由来碑には「日本独自の書道文化を支えるのは熊の筆である。祖先が熊野に取り入れた熊野筆の生産を生業として、その技術にさらに磨きをかけた、その結果、熊野筆は国の内外へ広がっていった。私たち町民は筆の生産で生活している。その筆に『命』があることを信じ筆の精霊と、先祖への遺徳、誇りと感謝をこめて、ここに同士が塚を築く」と言う意味の文面が記されています。
 年に一度、秋分の日に行われる「筆まつり」では、これまで使用してきた筆を心から大切に思う気持ちと同時に、筆の毛となってくれる動物の霊に感謝し、この塚の傍で筆を焼いて供養します。
 ちなみに「筆塚」の文字は、広島県出身の首相、池田勇人元首相の肉筆を刻んだものです。
ふでづか

10.熊野本宮社(くまのほんぐうしゃ)

 この神社は、養和元年(1181)平家滅亡の頃、紀州熊野大権現から勧請したといわれています。熊野村の呼称の由来もこの神社から来ていると伝えられています。言い伝えでは、『寛政12年(1800)火縄を咥えた鶴が社殿に飛び込んだため、社殿は焼失してしまい、御神霊はやむなく紀州の熊野神社に飛び去り、それ以後、中絶した形になっていたが、再び紀州より勧請が行われた。』とあります。現在の神社は、大正3年に熊野町の平木浦次郎氏により建立されました。
 この神社が焼失した当時は、熊野には沼地も多く、鶴も飛来していました。いまも町内に残る「鶴ヶ沢」という地名にその名残が残っていますが、実際に火を加えて飛んでくるとは思えず、おそらくは兵火に襲われて焼失したことを、神様の祟りから逃れようとした人間が、鶴に責任を負わせてしたのではないかと推測されます。
 このような伝説をはらむ神社だけに、霊験あらたかで信仰も厚く、再建の時の寄進は、近隣はもとより広島城下にまで及びました。この神社は由緒が古いため、榊山神社と共に安芸郡でも有名な神社となっています。
くまのほんぐうしゃしょうめんがいかん

11.諏訪神社(すわじんじゃ)

 諏訪神社は全国各地に祭られていますが、この神社も信濃国諏訪神社から勧請された祭神で、長禄元年(1457)に熊野に移されたといわれています。天文24年(1555)に毛利公から社領を受けていて、浅野藩からも同様の処遇を受けていることから村人たちから崇拝されていた神社です。
 もとは熊野中学校の敷地にありましたが、敷地拡張このためにこの場所に移されました。
すわじんじゃがいかん

12.榊山神社(さかきやまじんじゃ)

 この神社は、承平3年(933)に福岡の宇佐八幡宮から勧請されたとされる古い神社です。正徳5年(1715)に火災に遭って宝物や古文書を焼き、正確な縁起を知ることはできません。現在の神殿は、享保9年(1724)に、5代藩主吉長の許可を得て3年の歳月をかけ再建されたものです。
 本殿は町の重要文化財に指定され、近世寺社建築の初期例として貴重な建築物です。宮大工の鳥居甚兵衛がこの神殿の造営にも携わっており、その様相は、下賀茂神社を典型とする流造りでスマートさがあり、また桃山文化の豪華絢爛な装飾の名残もあります。大きさから見れば、通常の神社建築の2.6倍の体積を持ち、わが国でも最大級の規模を誇る珍しい神社です。
 これだけの規模の建築物を作る多額の費用を、当時の農民が負担したことを考えると、熊野の財政の豊かさを計る良い研究材料であるといえます。
 また、「神楽踊り(ヤーハー)」と呼ばれる中世風の踊りも伝わっています。
さかきやまじんじゃがいかん

13.榊山神社玉垣(さかきやまじんじゃたまがき)

 この玉垣が作られたのは安政6年(1859)で、その当時熊野には、筆の商売で大豪商が出てきた時期でした。これらの豪商は村の中で神社の再建や寺院の修復があるたびに多大な寄付・寄進をしていました。
 榊山神社へと昇る九十九段の石段は、そのうちの一人、孫井田才兵衛(まごいださいべえ)の寄進です。九十九段の石段の建設費用は現在のお金にして2千万円とも言われ、当時の豪商がいかに財力があったかを知ることができます。  あわせて、玉垣も弟の孫井田正三郎の奉納と渡辺勘三郎の寄進ですが、この玉垣や参道に並ぶ石灯籠には、「奈良・秋田屋小兵衛」「大坂・楠本屋利兵衛」「有馬・小田原屋庄三郎」「有馬・江戸屋久兵衛」など、当時の近畿地方の豪商の名前が書き込まれています。このことからも、毛筆の商売がかなり広範囲で行われていたかを知る手がかりになります。
 また、玉垣に刻銘されている建築年代が明確な石柱は珍しく、文化財としても価値があり、町の重要文化財にも指定されています。
さかきやまじんじゃたまがき

14.光教坊(こうきょうぼう)

 この光教坊は、1255年に町内の石嶽山に真言宗石水寺として開かれたのが始めといわれています。永禄年間(1558年)に浄土真宗に改宗し、石嶽山光教坊となり、安芸国観音霊場32番札所にもなっています。
 現在の本堂は文政10年(1827年)に再建され、山門の鐘楼は、明和4年(1767年)に作られ、毎年除夜の鐘を町内に響かせています。
 御本尊の阿弥陀如来や堂内の彫刻、絵画や厨子など、庭のモッコクやイチョウとあいまって、由緒正しい寺として親しまれています。秋には大イチョウが落とす黄色い葉っぱで、一面の黄色い絨毯が出来上がります。
こうきょうぼうがいかん

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TEL/082-820-5602   FAX/082-854-8009
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