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熊野町を歩いてみよう!~歴史散策コース~


熊野町を歩いてみよう!
  歴史散策コース  
(所要時間約90分)

ふでのさとこうぼうしゅうへんず
筆の里工房から榊山神社をめぐり郷土館で折り返す、熊野町及び熊野筆の歴史を感じることのできるルートです。
土日祝日には郷土館が開館しており、筆の都の案内人(観光ボランティアガイド)がおりますので、お気軽にお尋ねください。


ルート

1.筆の里工房→2.坂面大池/石碑→3.熊野筆毛筆元祖頌徳之碑→4.筆塚→5.熊野本宮社→6.諏訪神社→7.榊山神社→8.榊山神社玉垣→9.光教坊→10.鬼瓦モニュメント→11.郷土館→12.熊野筆会館→13.西光寺→1.筆の里工房
みちばたのせきひ
▲筆のまちを感じさせる石碑

1.筆の里工房(ふでのさとこうぼう)

 筆の里工房は平成6年9月にオープンしました。筆の歴史をはじめとして,筆から生まれる美術・工芸・遊びなど,筆の広がりの世界を見て・触れて・体験できる施設です。平成10年には秋篠宮御夫妻が,平成16年には小泉元首相が来館されたこともあります。
 常設展示では長さ3.7メートル,重さ400キロを超える世界一の大筆が展示してあるほか,熊野の旧家を再現したセットの中で伝統工芸士による筆づくりの作業を見ることができます。また,ここでは実際に筆づくり体験をすることもでき,予約しておけば筆の軸に自分の名前を彫ってもらえます。
 他にも,企画展示で芸能人の片岡鶴太郎や石坂浩二などの作品展示を行ったこともあります。
 また,エントランスホールには,毛筆,画筆,化粧筆が特価で購入できる「ドットコムショップ」があり,工房を訪れた人々に人気です。
ふでのさとこうぼう

2.坂面大池(さかづらおおいけ)/石碑

「坂面大池」
 筆の里工房横のこの池は、天和3年(1683)2月、潅漑用として農民たちが、鍬・鎌・大工道具を用いて作られたという記録が残っています。大正14年に拡張工事を行い、広さ約1ヘクタールの池になり、平成に入って再度整備されて現在にいたっています。
 そもそも熊野町は気候が瀬戸内海式気候で、年降水量が少なく、また大きな河川も無く、水に乏しい盆地です。そのため、稲作中心の農家では水の確保がとりわけ大切で、この熊野に溜池が多いのもそのためです。溜池は熊野の農業の生命線であるといえます。この坂面大池は、かつては熊野の水泳場としても親しまれていました。

「石碑」
 池の周りにたっている石碑は、毎年9月23日に行われる「筆まつり」の日に、有名な書家の先生が大書を書かれたものを石碑として刻んで残しているものです。毎年1基づつ増えていきますが、坂面大池を一周するのに何年かかるのか、計算してみるのも面白いかもしれません。
さかずらおおいけしゃしん
▲坂面大池
たいさくせきしょのせきひ
▲石碑

3.熊野筆毛筆元祖頌徳之碑(くまのふでもうひつがんそしょうとくのひ)

 熊野に筆の生産技術をもたらした、「井上治平(いのうえじへい)」と「乙丸常太(おとまるつねた)」を称え、熊野町商工会が昭和22年に建てたものです。
 井上治平は、当時広島市内にいた浅野家の御用筆司、吉田清蔵から製筆の技術を学び、また、同じ頃に乙丸常太も、摂津有馬で製筆技術を修得して帰り、二人とも郷土の村人にこれを教えたといいます。熊野村は山間の地で、自給自足が難しかった寒村でしたが、農耕の傍らに副業として筆づくりをして生計を立てていました。それが次第に生産量が多くなり、熊野筆の名前は多くの人の知るところとなりました。
 筆の生産技術を伝えた功績者としては、他にも「佐々木為次(ささきためじ)」が挙げられますが、彼の名前はなぜか無く、別の場所に碑が建てられています。
くまのふでもうひつがんそしょうとくのひ

4.筆塚(ふでづか)

 昭和40年9月に「筆精」を供養するため建てられました。  この碑の傍らにある由来碑には「日本独自の書道文化を支えるのは熊の筆である。祖先が熊野に取り入れた熊野筆の生産を生業として、その技術にさらに磨きをかけた、その結果、熊野筆は国の内外へ広がっていった。私たち町民は筆の生産で生活している。その筆に『命』があることを信じ筆の精霊と、先祖への遺徳、誇りと感謝をこめて、ここに同士が塚を築く」と言う意味の文面が記されています。
 年に一度、秋分の日に行われる「筆まつり」では、これまで使用してきた筆を心から大切に思う気持ちと同時に、筆の毛となってくれる動物の霊に感謝し、この塚の傍で筆を焼いて供養します。
 ちなみに「筆塚」の文字は、広島県出身の首相、池田勇人元首相の肉筆を刻んだものです。
ふでづか

5.熊野本宮社(くまのほんぐうしゃ)

 この神社は、養和元年(1181)平家滅亡の頃、紀州熊野大権現から勧請したといわれています。熊野村の呼称の由来もこの神社から来ていると伝えられています。言い伝えでは、『寛政12年(1800)火縄を咥えた鶴が社殿に飛び込んだため、社殿は焼失してしまい、御神霊はやむなく紀州の熊野神社に飛び去り、それ以後、中絶した形になっていたが、再び紀州より勧請が行われた。』とあります。現在の神社は、大正3年に熊野町の平木浦次郎氏により建立されました。
 この神社が焼失した当時は、熊野には沼地も多く、鶴も飛来していました。いまも町内に残る「鶴ヶ沢」という地名にその名残が残っていますが、実際に火を加えて飛んでくるとは思えず、おそらくは兵火に襲われて焼失したことを、神様の祟りから逃れようとした人間が、鶴に責任を負わせてしたのではないかと推測されます。
 このような伝説をはらむ神社だけに、霊験あらたかで信仰も厚く、再建の時の寄進は、近隣はもとより広島城下にまで及びました。この神社は由緒が古いため、榊山神社と共に安芸郡でも有名な神社となっています。
くまのほんぐうしゃ

6.諏訪神社(すわじんじゃ)

 諏訪神社は全国各地に祭られていますが、この神社も信濃国諏訪神社から勧請された祭神で、長禄元年(1457)に熊野に移されたといわれています。天文24年(1555)に毛利公から社領を受けていて、浅野藩からも同様の処遇を受けていることから村人たちから崇拝されていた神社です。
 もとは熊野中学校の敷地にありましたが、敷地拡張このためにこの場所に移されました。
すわじんじゃ

7.榊山神社(さかきやまじんじゃ)

 この神社は、承平3年(933)に福岡の宇佐八幡宮から勧請されたとされる古い神社です。正徳5年(1715)に火災に遭って宝物や古文書を焼き、正確な縁起を知ることはできません。現在の神殿は、享保9年(1724)に、5代藩主吉長の許可を得て3年の歳月をかけ再建されたものです。
 本殿は町の重要文化財に指定され、近世寺社建築の初期例として貴重な建築物です。宮大工の鳥居甚兵衛がこの神殿の造営にも携わっており、その様相は、下賀茂神社を典型とする流造りでスマートさがあり、また桃山文化の豪華絢爛な装飾の名残もあります。大きさから見れば、通常の神社建築の2.6倍の体積を持ち、わが国でも最大級の規模を誇る珍しい神社です。
 これだけの規模の建築物を作る多額の費用を、当時の農民が負担したことを考えると、熊野の財政の豊かさを計る良い研究材料であるといえます。
 また、「神楽踊り(ヤーハー)」と呼ばれる中世風の踊りも伝わっています。
さかきやまじんじゃ

8.榊山神社玉垣(さかきやまじんじゃたまがき)

 この玉垣が作られたのは安政6年(1859)で、その当時熊野には、筆の商売で大豪商が出てきた時期でした。これらの豪商は村の中で神社の再建や寺院の修復があるたびに多大な寄付・寄進をしていました。
 榊山神社へと昇る九十九段の石段は、そのうちの一人、孫井田才兵衛(まごいださいべえ)の寄進です。九十九段の石段の建設費用は現在のお金にして2千万円とも言われ、当時の豪商がいかに財力があったかを知ることができます。  あわせて、玉垣も弟の孫井田正三郎の奉納と渡辺勘三郎の寄進ですが、この玉垣や参道に並ぶ石灯籠には、「奈良・秋田屋小兵衛」「大坂・楠本屋利兵衛」「有馬・小田原屋庄三郎」「有馬・江戸屋久兵衛」など、当時の近畿地方の豪商の名前が書き込まれています。このことからも、毛筆の商売がかなり広範囲で行われていたかを知る手がかりになります。
 また、玉垣に刻銘されている建築年代が明確な石柱は珍しく、文化財としても価値があり、町の重要文化財にも指定されています。
さかきやまじんじゃたまがき

9.光教坊(こうきょうぼう)

 この光教坊は、1255年に町内の石嶽山に真言宗石水寺として開かれたのが始めといわれています。永禄年間(1558年)に浄土真宗に改宗し、石嶽山光教坊となり、安芸国観音霊場32番札所にもなっています。
 現在の本堂は文政10年(1827年)に再建され、山門の鐘楼は、明和4年(1767年)に作られ、毎年除夜の鐘を町内に響かせています。
 御本尊の阿弥陀如来や堂内の彫刻、絵画や厨子など、庭のモッコクやイチョウとあいまって、由緒正しい寺として親しまれています。秋には大イチョウが落とす黄色い葉っぱで、一面の黄色い絨毯が出来上がります。
こうきょうぼうがいかん

10.鬼瓦モニュメント

 この鬼瓦は、平成5年に行われた光教坊大修理の際に、本堂の屋根から降ろされたものです。製作は約170年ほど前に作られた「江波瓦」であることがわかりました。
 広島には江戸時代に「舟入の瓦焼」「江波瓦焼」「吉浦瓦焼」の三箇所があったといわれていましたが、「江波瓦」実物は見つかっておらず、この「江波瓦」は幻の瓦と言われていていました。その「江波瓦」の存在を立証したのがこの鬼瓦で、発見当時の新聞には大きく取り上げられました。
 瓦の顔の部分の左側には製造年月日が、右側には製造場所と3人の職人の名前が刻まれています。巨大な鬼瓦の造りには、当時の瓦職人の技術が見てとれ、町の重要文化財にも指定されています。
 この鬼瓦は「対」になっており、もう一つは光教坊の境内に設置されています。
おにがわらもにゅめんと

11.熊野町郷土館(くまのちょうきょうどかん)

 この建物は大正時代初期、町の中心街で栄えた造り酒屋、尺田酒造場を役場が譲り受け、改築整備の後に昭和53年に開館しました。
 建物は宮大工の平木浦次郎氏が建てた重厚で立派な建物で、先祖の生活・歴史・人・産業・文化等を伝える用具や筆の文化に関する用品を保存し、後世に伝えていくものです。
 庭園には鬼瓦モニュメント、1階には明治・大正の農工具、生活用品などが、展示してあり、入口すぐのギャラリーでは、DVDで「筆づくり」や「筆まつり」、「筆踊り」や「彼岸舟」などの映像を見ることができます。中でも、2階にある昭和天皇が広島に来られた時に使用された椅子の展示や、郷土が誇る童謡作曲家の「坊田かずま」の遺品の展示は興味をそそります。また、誰もが出店できるコーナーも設けられています。
開館日/土日祝日、TEL082-855-2559
きょうどかんないぶ

12.熊野筆会館(くまのふでかいかん)

 1階部分は「熊野筆事業協同組合」、2階は熊野筆を紹介する展示スペースとなっています。動物園で飼育されているパンダの毛を、丁寧に一本づつ集めて作った珍しい筆もあります。  熊野筆事業協同組合では、各種筆の販売から、赤ちゃんの頭の毛で作る誕生記念の筆「胎毛筆」の受付も行っています。
開館日/平日月~金曜日、TEL082-854-0074(熊野筆事業共同組合)
ふでかいかんてんじのようす

13.西光寺(さいこうじ)

 この寺は慶長3年(1598)に開基しました。寺には蓮如上人の逸話を記述した「糸引名号略縁起(いとひきみょうごうりゃくえんき)」という文書が残っており、この中に出てくる蓮如上人が書き記した「名号」もあるといわれています。これは、織田信長と本願寺が石山合戦(1573)をした時に、本願寺側の戦意を高めるために蓮如上人の名号を下付したものと言われていて、これにより西光寺がこの石山合戦に何らかのかかわりがあったという証になります。
 古文書や絵画などは天明年間と昭和11年の火災で焼失していますが、門は昔の姿を保っていて、柱にある象の彫刻は迫力があります。火災後も、本堂の再建には多くの檀家たちによってすぐ再建の費用が集まったといわれていて、この寺への人々の信仰が厚いことが伺えます。
さいこうじがいかん

関連情報

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熊野町総務部 地域振興課
TEL/082-820-5602   FAX/082-854-8009
E-mail/kanko@town.kumano.hiroshima.jp